見られていたとは
- 2018/11/19
- 12:35

まさかこのホームページ(ブログ)が誰かに見られていたなんて、
思いもよらなかった。
誰にも話していないし、橋口や真悠で検索しても出てこない。
橋口真悠で検索しないと出てこない。
このページは橋口真悠と二人だけの手紙のコーナーのつもりでいたが・・・。
もうこの世に橋口真悠はいない。
戸籍上存在しない。
離婚したからだ。
真悠とは別れたくなかったが、仕方なかった。
真悠は5歳で分別もつかない。
それでもあきらめざるを得ない、悲しい別れであった。
しかし、真悠には俺の血が流れている。
父と子の関係は、俺が死んでも真悠が死んでも切れない。
果ては地球が宇宙の藻屑(もくず)となっても、
その関係は変わることはない。
父が子を思う心を止めることはできない。
橋口真悠は俺の心の中にいる。
そもそもこのホームページを作ったのは、
真悠がいじめられたり、虐待(ぎゃくたい)にあったり、挫折(ざせつ)したり、とても悲しい思いがつらかったり、
父の存在が必要になった時のために残しているのだ。
俺が家を出たのは、真悠が魔に憑(と)りつかれ、
心が鬼のようになってしまったからだ。
このままでは、敵(かたき)となって、二人で果し合いをすることになるのが怖くて、
仏法に照らして、俺が家を去ろうと思った。
真悠は仏縁深い子なので、いつかその呪縛(じゅばく)から解き放たれる日が来ると信じて、
このホームページでメッセージを送っている。
父として愛情を注ぎ、仏教徒の先輩として道を示している。
真悠はいつまでも受け入れないかもしれない。
また、いつか受け入れるかもしれない。
それはわからないが、真悠が目覚める日を待っている。
俺はその時はすでにこの世にいないかもしれない。
でも俺が生きている間に真悠が魔の呪縛から解放され、
真実の心に立ち戻ったら、一緒にご飯を食べたり、遊んだり、
ぜいたくを言えば、一緒に暮らせればいいとは思うが、
無理にそうしようとは思わない。
真悠は俺のものではないし、真悠は真悠で生きていくのだから。
六波羅蜜の3つ目は「忍辱(にんにく)」です。
耐えること。
外からの圧力に耐えること。
また内からの圧力、貪欲(どんよく)、瞋恚(しんに)、愚痴(ぐち)に耐えること。
これはお釈迦様の大切な教え。
欲張(よくば)らず足(た)るを知ること。
怒(いか)りの気持ちを抑(おさ)えること、というよりも物事に寛容(つまり大きな心で優しく許すこと)、
自分も間違っているんだと、反省すること。
愚痴は後悔(こうかい)すること。
思い悩んでも何も解決しない。
それよりも何がダメだったのかをじっくり考えて、次にチャレンジしていくこと、かな。
外からの圧力、いじめや暴力(ぼうりょく)には一時的には耐えれるけど、
死ぬほど耐えることはないよ。
その前にそこから逃げなさい。
他にいくらでも道はあるし、世界は広がっている。
世の中にはたくさんの不条理(ふじょうり)があります。
欲と欲がぶつかり合って、傷つけあっているのがこの世の有様(ありさま)です。
自分さえよかったらいいと、考えるのが動物ですが、
人間も基本的にはそう考えます。
生命の維持から言って普通のことです。
当たり前のことです。
でもそこはわかっていながらも、
お釈迦さまは布施(人にやさしくすること)と忍辱(たえること)を
説きました。
真悠はわかるよね。
写真はパパの家から見える港の景色です。
朝早く、お月様に照らされた海なんだ。
きれいでしょう。
じゃあまたね。(^-^)/