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UCC缶コーヒーの思い出2  田ノ浦の海

田ノ浦の海
ここは不知火海(しらぬいかい)田ノ浦(たのうら)の海。
俺が10歳~13歳の頃タコ壺(つぼ)漁師をしていた海だ。
じさん(熊本ではじいちゃんのことをこう言う)に連れられて、何回か行っただけやけどね。
一応漁師であった。
櫂(かい)が後ろにある日本古来からの舟。
風が吹けば小さな帆(ほ)を上げて帆船(はんせん)になる。

俺は漁に出ていない時はもっぱら松ヶ崎(まつがさき)で海水浴に興じていた。
岩場とごつごつした石の海岸。
朝10時から12時まで。
田浦町の海水浴場になっていた。
町の子どもが遊びに来る場所。
下山君や国男君たちと毎日遊んでいた。
帽子は阪神タイガース。THは俺の名前と同じ。
背番号6番、藤田平が好きやった。

じいちゃんの家は宮ノ浦。
変電所の横を通って、東海電極(今の東海カーボン)の社宅を抜けて、3号線に出る。
肥後田浦駅の方に行かず、3号線を佐敷方面に行くとトンネルがあった。
トンネルを抜けて、右に折れ、踏切を渡ると東海電極の田ノ浦工場入口に出る。
真っ直ぐ進み、橋を渡れば正面に駄菓子屋。
ここで海水浴の帰りに50円のベビーコーラを買って飲んだ。
その駄菓子屋の左方向には小田浦小学校があった。
友だちはここに通っていた。
松ヶ崎は小田浦小学校とは反対の右の方へ行く。
無茶苦茶暑い中を歩いて行った。
家からの距離は3kmくらいあったんやないか?
遠かったけど毎日楽しかった。

昼からは何してたかな?
バスか汽車で佐敷に行った。
佐敷には親戚が多い。
だいたいは佐敷駅前で旅館をやっていたうめの家(うめのや)が目的。
いとこで同級生の大視ちゃん、2歳上の秀千代ちゃん、高校生の代洋さんがいて遊ぶから。
大視ちゃんは頭が良くて通信簿は体育以外は全部5.全くかなわない。
運動くらいは勝ってたね。
将棋やっても負けてばかりで面白くないのでやめた。
まあ俺は1月生まれ、大視ちゃんは4月2日生まれで、その月齢ギャップが大きかったかも?
代洋さんは大きかったので、ほとんど遊ばなかった。
雑誌の平凡やら明星を駅の売店まで買いに行かされたくらいかな。

第二の目的は映画を観ること。
梅の屋のウメノ叔母さんは実業家で、映画館も経営していた。
秀映という映画館。
「二人の銀座」「モスラ」「ゴジラ対キングギドラ」が印象的だった。
場内には薄暗い光が灯る売店があった。
今は売店はホールにあるのが普通やね。
文子叔母さんが、売り子をしていた。
ジュースとピーナツを買って食べた。
UCCの缶コーヒーはなかった。
宣伝用の写真を一杯もらったけど、大阪の友だちにみんなやってしまった。
この頃から人を喜ばすのが好きだったから。
惜しみなくやったと思う。

駅から宮浦の家に行くまでに、東海電極の社宅があり、その中央あたりに浦明社(ほうめいしゃ)があった。
浦明社は万屋(よろずや)。食品から雑貨、衣料品、靴、文房具などなんでも売っていた。
俺は母ちゃんからもらった小遣いで、靴を買った。
おそ松くんの絵が描いてある白い靴。
夏の光りにあんまりまぶしく真っ白に光るので、わざと靴底で踏んで汚した。
きれいなものが周りの人や風景と合わなかったからか。
浦明社の横は広場で、盆踊りが賑やかだった。
いっぱい人がいて、楽しかった。
お盆が過ぎると秋の気配が漂い、大阪に帰る日が近づいてくる。
もの悲しい切ない思いがした。

なかなかUCC缶コーヒーの話にならんなあ~。

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橋口輝雄です。
大きくなっていく真悠にメッセージを送っています。
父がこんなにも真悠を愛していたと、伝わればいいね。
真悠は愛されていたんですよ。
だから大丈夫。
生きていれば苦労の連続だけど、大丈夫。
安心してね。
これは父から娘への遺言です。
だから他の人は読まないでください。
読んでもおもしろくないし。
ごめんなさい。
真悠、いつかメール頂戴ね。
待ってるで~。
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